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ゆるふわ系殺伐ブログ

ペンは剣よりも強いから剣はペンを壊す?

すっかり世間の物事から疎くなってしまったところで、フランスにおけるシャルリー・エブドの編集部襲撃事件が起こった。このことについて特に考えることもなく、ただ「ペンと剣」についてなんとなく考えていたら、以下の記事が目に入った。



ペンが与えるかすり傷は、銃が与えるかすり傷より深い:日経ビジネスオンライン


今回はこの記事をベースに、ペンと剣と暴力について雑感を記しておこうと思う。

・言葉の暴力と暴力

今回の風刺のみならず、シャルリー・エブド紙は度々イスラムのみならず広範囲にわたって皮肉を書き続けていた。フランス文化を体現しているといえばそれまでだが、この社会的なルールが誰に対しても適応されるものではないことを押さえておく必要はある。
このようなある者に対する「言葉の暴力」を許しておいていいものなのかという問題がここにある。今回はイスラムに対する風刺と皮肉なのだが、これに対して気分を害した人は多いのではないだろうか。これに対して「暴力」による解決を図ろうとする者がいてもおかしな話ではない。
「言葉の暴力」に対して「暴力」によって報復措置を取ることが妥当であるかどうかは別問題として、暴力によって解決を図ろうとすることは度々みられる。そして今回のフランスではそれが起こってしまった。つまりある者にとっての暴力によって、暴力が引き起こされたとみると、至極妥当な話なのだろうとみることができる。
私はこれを肯定も否定もしない。例えば、私自身が言葉によって何かしら陰湿なイジメを受けたとしたら、その相手を殴ることがあってもおかしなことではないと感じているからだ。ただしこれはミクロな話だ。それがマクロに展開されたとき一体どうなるかということが今回の問題だと推測する。

・暴力の応酬と負の連鎖

タイトルの通り、ペンは剣よりも強いからこそ剣はペンを壊そうとするのではないだろうか?
もう少しわかりやすい構図にするならば、集団(社会)vs集団(社会)という構図といえるのではないだろうか。今回はイスラムに属する集団と、フランス社会における皮肉連中という図が描けるのではないだろうか。この二者が言い争いをしているうちはまだいいのかもしれない。言葉の暴力で応酬できる強さを持っているのであれば、人は初めから暴力など使うこともないだろう。しかし今回、言葉の暴力に対して突きつけられたのは暴力だ。言葉の暴力を受け続けることに耐えきれなくなったのだろう。
この構図は負の連鎖ともいえる。言葉の暴力か暴力へ、そして暴力へ…絶え間ない応酬が繰り広げられるだろう。これを単純にテロとの戦争といっていいものだろうか?
ふと、最近テロ行為というものの根源は何であるのかと考えることがある。そこで考えられることは、ある巨大な集団が、別の集団に対して押しつけがましいことをする。あるいは自らのルールに従わせようとすることだ。我々がルールだ!と言わんばかりの行為が、結果としてテロを生み出すのではないだろうか?
暴力の応酬を単純に宗教的な問題に還元したくはないと私は思う。個人個人を見た場合にどう考えても宗教とは無関係の事柄で動いているのだから。しかし、大局的に見た場合には残念ながら宗教的な要素を含んだイデオロギーが闊歩している。

・集団における個人と暴力

集団における個人が、その集団を守ろうと考えて暴力に打って出たとも考えられる。個人の価値観は人それぞれ異なっており、過激な人から温和な人まで多種多様だ。ならば、今回のテロ行為もフランス社会のイスラム集団における過激な(過敏な)人が行っただけともいえるだろう。現にテロの際に亡くなった警官はイスラム教徒だった。
フランス社会におけるイスラム教徒であったからこそテロ行為者はテロ行為者になったわけだが、そうであるならば、問題はより深刻だ。平穏を望むものがいるにしても、言葉の暴力によって過激にならざるを得ない場面が出てきてしまうからだ。


本文においても
「野蛮な行為と言われるものが、行為者にとっては自由なる表現であったならば」
「人を傷つけるような表現を、野蛮な行為とは言わないか」。
ということをオランド大統領が述べたと綴られている。


「暴力」に対して「言葉の暴力」で応酬することもまた負の連鎖につながるだけなのではないだろうか?


このような応酬が繰り返される限り、暴力は繰り返されるだろう。

・まとめ

以上のことをまとめてみると以下のようなものになるのではないだろうか。
価値観や思想、習慣が異なった社会集団が混在しているとき、ある特定の社会集団に対する非難や皮肉をつづけた場合に、その集団に属する個人がテロ行為を行ってしまうことを止めようがない。
要は、自分が属する集団の秩序を非難されていると感じるからだ。これをヘイトスピーチと一概に呼んでいいのかどうかはわからない。どのような集団であっても、伝統や文化の中に人権を侵害するような行為が含まれている場合があるからだ。
ただ、この人権という考え方すらも場合によっては「言葉の暴力」と取られてしまうのかもしれない…。


最期にこの言葉で締めようと思う。
「それを言っちゃあ、おしまいよ」