よーすとりーむ

ゆるふわ系殺伐ブログ

第12回よるさんぽは築地で朝ご飯を食べよう!

前回のよるさんぽから約2年…

ついに、あの、よるさんぽが、帰ってきた。

今回のよるさんぽ

twipla.jp

4月29日(金)21:00に開始いたします。
現在の天気予報では晴れとのことなのでほっとしております。

一応、今回のルートはわたくしの経験と想像力で構成いたしております。
ついぷらを立てるのはあさげのお仕事ですので、こちらではちょっとした見どころ等々紹介できたらと思います。

今回のルート

ざっと今回のルートを紹介すると…
秋葉原スタートし、古本屋街神保町を抜け、首都高渋滞で有名?な竹橋ジャンクションへ。
そこから交番立ち並ぶ夜の皇居北側を西に抜けるとそこは桜の名所であるところの千鳥ヶ淵
イギリス大使館を横目に南下し目指すは大老 井伊直弼が暗殺された桜田門
ここからはさらにひっそりとした深夜の霞が関。その先に待ち受けたるはさらにひっそりとした日比谷公園
帝国ホテルにあこがれを抱きつつ次なる通りは夜の銀座。
夜であっても華やかな銀座を抜け、その先に待つのは我らが目的地築地である。
朝のかちどき橋で日を眺めたら、目と鼻の先、築地で朝ご飯と行こうじゃないか!!」

以上、今回のルート案内でした。目的地周辺での案内は当日行いますので奮ってご参加ください。

今回のゴールについて

今回のゴール設定について少しだけ説明します。
よるさんぽはこれまで基本的に日の出を目指して日の見えるような場所を探して歩いてきたわけですが、今回はその法則から外れて朝ご飯を目指して歩くことにしました。
というのも、朝日一辺倒なさんぽというのも芸がなく、かといって人も多かったりするので狭いところも歩けない。その他諸々の理由で都心は避けていたのですが、僕は常々都心をメインに歩きたいと思っている次第です。東京の海辺は一通り歩きつくしているというのもあるので…。

ただ、今回はそれ以上に、築地が今年11月に移転する事が大きく影響しています。
この市場がなくなる前によるさんぽのゴールにできたらいいなと、純粋にそれくらいの考えです。
僕自身、度々通っては買い物をしているのですが、市場独特の雰囲気があります。場内があり、そのまわりに自然発生的にできた場外がある。これらを見て回るだけでも市場特融かつ、築地らしい雰囲気を感じていただけるのではないでしょうか。
朝の市場の雰囲気を、皆さんに少しでも感じていただけたら、これもまたよるさんぽが目指すところの「非日常」なのかもしれません。

おまけ

よるさんぽの紹介というよりは築地の話がメインになってしまいましたが、最後にいくつかおまけ。
・築地といえばマグロの競り。どうやら見ようと思えばみられるらしいが3時~4時には現地についている必要があるらしい。
築地市場厚生会館公式ホームページ マグロのせりのご案内

・深夜の銀座は写真撮影にいいかもしれない。
・不審な行為で警察に捕まった場合、我々ではどうしようもない。
・「夜の」とつけると雰囲気がよく感じられるが、現実問題として店は開いていない。
・天気予報を見るに夜はやや冷えそうなので上着を持ってくるといいかもしれない。
・散歩であってウォーキングではない、間違えるんじゃないぞ!


以上、今回のよるさんぽをざっと紹介でした。

久しぶりに何かを書くにあたり

目標「いろいろと、書きたいことはあるけれど、ただひたすらにゆるく書きたい」


Twitterという便利なツールを使うようになり、140字と膨大なフローデータの中に身を埋め、そこに心地よさを感じていたあの頃。
あの頃のTwitterは狭い世界だった。
それが7年前の事だった。


時は流れ、残る人、去る人、アカウントを変える人、様々な人たちがいた。
ネットを越えリアルで繋がり、様々な出会いがあった。

いろいろ見てきて、いろいろ体験してきて、いろいろ得てきた。


ただ、得るということは同時に失うことを背負うということも感じてきた。
あの人は今何をしているのだろうかと、ふと、そう思う時があるのだ。
そう思うときはいつだってあった。PSOにハマっていたあの頃一緒に冒険をした人たちは今どうしているのだろうかと、思い返すこともあった。
ただ、実際に出会った人たちが消えていく世界というものはTwitter以前に自分の世界にはなかったものだ。
なに自然に会っていた人たちが、ある日突然消えていく。
そんな人たちを、僕はただ待ち続けているのかもしれない。


人が人の前から消えるということはどういうことなのだろうか。
その儚さと取り残された寂しさ、そういったものを引きずって生きたい。

ペンは剣よりも強いから剣はペンを壊す?

すっかり世間の物事から疎くなってしまったところで、フランスにおけるシャルリー・エブドの編集部襲撃事件が起こった。このことについて特に考えることもなく、ただ「ペンと剣」についてなんとなく考えていたら、以下の記事が目に入った。



ペンが与えるかすり傷は、銃が与えるかすり傷より深い:日経ビジネスオンライン


今回はこの記事をベースに、ペンと剣と暴力について雑感を記しておこうと思う。

・言葉の暴力と暴力

今回の風刺のみならず、シャルリー・エブド紙は度々イスラムのみならず広範囲にわたって皮肉を書き続けていた。フランス文化を体現しているといえばそれまでだが、この社会的なルールが誰に対しても適応されるものではないことを押さえておく必要はある。
このようなある者に対する「言葉の暴力」を許しておいていいものなのかという問題がここにある。今回はイスラムに対する風刺と皮肉なのだが、これに対して気分を害した人は多いのではないだろうか。これに対して「暴力」による解決を図ろうとする者がいてもおかしな話ではない。
「言葉の暴力」に対して「暴力」によって報復措置を取ることが妥当であるかどうかは別問題として、暴力によって解決を図ろうとすることは度々みられる。そして今回のフランスではそれが起こってしまった。つまりある者にとっての暴力によって、暴力が引き起こされたとみると、至極妥当な話なのだろうとみることができる。
私はこれを肯定も否定もしない。例えば、私自身が言葉によって何かしら陰湿なイジメを受けたとしたら、その相手を殴ることがあってもおかしなことではないと感じているからだ。ただしこれはミクロな話だ。それがマクロに展開されたとき一体どうなるかということが今回の問題だと推測する。

・暴力の応酬と負の連鎖

タイトルの通り、ペンは剣よりも強いからこそ剣はペンを壊そうとするのではないだろうか?
もう少しわかりやすい構図にするならば、集団(社会)vs集団(社会)という構図といえるのではないだろうか。今回はイスラムに属する集団と、フランス社会における皮肉連中という図が描けるのではないだろうか。この二者が言い争いをしているうちはまだいいのかもしれない。言葉の暴力で応酬できる強さを持っているのであれば、人は初めから暴力など使うこともないだろう。しかし今回、言葉の暴力に対して突きつけられたのは暴力だ。言葉の暴力を受け続けることに耐えきれなくなったのだろう。
この構図は負の連鎖ともいえる。言葉の暴力か暴力へ、そして暴力へ…絶え間ない応酬が繰り広げられるだろう。これを単純にテロとの戦争といっていいものだろうか?
ふと、最近テロ行為というものの根源は何であるのかと考えることがある。そこで考えられることは、ある巨大な集団が、別の集団に対して押しつけがましいことをする。あるいは自らのルールに従わせようとすることだ。我々がルールだ!と言わんばかりの行為が、結果としてテロを生み出すのではないだろうか?
暴力の応酬を単純に宗教的な問題に還元したくはないと私は思う。個人個人を見た場合にどう考えても宗教とは無関係の事柄で動いているのだから。しかし、大局的に見た場合には残念ながら宗教的な要素を含んだイデオロギーが闊歩している。

・集団における個人と暴力

集団における個人が、その集団を守ろうと考えて暴力に打って出たとも考えられる。個人の価値観は人それぞれ異なっており、過激な人から温和な人まで多種多様だ。ならば、今回のテロ行為もフランス社会のイスラム集団における過激な(過敏な)人が行っただけともいえるだろう。現にテロの際に亡くなった警官はイスラム教徒だった。
フランス社会におけるイスラム教徒であったからこそテロ行為者はテロ行為者になったわけだが、そうであるならば、問題はより深刻だ。平穏を望むものがいるにしても、言葉の暴力によって過激にならざるを得ない場面が出てきてしまうからだ。


本文においても
「野蛮な行為と言われるものが、行為者にとっては自由なる表現であったならば」
「人を傷つけるような表現を、野蛮な行為とは言わないか」。
ということをオランド大統領が述べたと綴られている。


「暴力」に対して「言葉の暴力」で応酬することもまた負の連鎖につながるだけなのではないだろうか?


このような応酬が繰り返される限り、暴力は繰り返されるだろう。

・まとめ

以上のことをまとめてみると以下のようなものになるのではないだろうか。
価値観や思想、習慣が異なった社会集団が混在しているとき、ある特定の社会集団に対する非難や皮肉をつづけた場合に、その集団に属する個人がテロ行為を行ってしまうことを止めようがない。
要は、自分が属する集団の秩序を非難されていると感じるからだ。これをヘイトスピーチと一概に呼んでいいのかどうかはわからない。どのような集団であっても、伝統や文化の中に人権を侵害するような行為が含まれている場合があるからだ。
ただ、この人権という考え方すらも場合によっては「言葉の暴力」と取られてしまうのかもしれない…。


最期にこの言葉で締めようと思う。
「それを言っちゃあ、おしまいよ」

Pluggy Lockが届いたその日に壊れたので修理してみた

最近話題のPluggy Lockという、イヤフォンジャックに挿してストラップホールにできてしまうという便利グッズを買ってみました。


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本体とマグネットでくっつくケース付き。

○使い方

スマホのイヤホンジャックに挿せば3キロの重りもぶら下げられるストラップホール「Pluggy Lock」を実際に使ってみたよレビュー - GIGAZINEとか


Pluggy Lock公式
How it works - Pluggy Lock®
にてご確認ください。


基本的に、挿して時計回りに回すだけ。とても簡単。


試しにiPhoneに挿して、iPhoneを吊るしてみた。
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全然落ちる気配がない!!


だが、この便利グッズがなんと1日で使えなくなってしまった…。
よくよくさまざまな記事を読んでみると、どうやら固定する際に回しすぎると壊れるらしい。
Appbankさんの記事などでも紹介されています。
[レビュー] 『Pluggy Lock』をiPhoneに正しく取り付ける方法 - たのしいiPhone! AppBank


注文してから早2週間オーバー。お値段もそれなりにいいもの…。
このまま諦めてなるものか!!と修理してみることに。

○壊れた時の状態

見た目にはわからないので画像は省かせていただきますが、
基本的にイヤホンジャックに挿して回しても固定されない(ゴムが膨らまない)状態です。
物理的にどこかが破損したということではないことをご了承いただけるとありがたいです。

○修理方法

Pluggy Lockを様々な角度から眺め、指でいじりまわし、指の皮がむけそうになった結果、ある一つの答えにたどり着きました。


その答えがこれだ!
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準備するもの
・T5型のドライバー、もしくはT5型のナットでも可能


Pluggy Lockの先端にはネジ穴が付いている。
1.そのネジ穴にドライバーを挿します。
2.指でゴムの部分をつまみます。
3.適度な力を加えて、ドライバーを反時計回りに回すだけ。
これだけで再び使えるようになりました。


Pluggy Lockの構造をみるとわかるのですが、ナットが回転しゴムを押し上げ膨らませることによってイヤフォンジャックに固定されています。
今回は、そのナットがPluggy Lockを外す際に、過度に締まって動かなくなったことが原因であると推測しています。
そのため、ドライバーを使わずとも、指で回すだけで解決することもあるようです。

○終わりに

今回はこのような修理法でなんとかなりました。
余談ですが、最初、中心のネジを外してナットを回そうと考えていたのですが、そもそも素手でPluggy Lockを固定することができず、そもそもゴムの下部のナットさえ緩めれば問題ないことに気が付くまでに指が真っ赤になってしまいました…。


もしPluggy Lockを買ったけれど使えなくなったという方がいれば、同じ方法を試してみてください。
ただし、本体それ自体が壊れたといった場合には効果がないのであしからず。

「Facebookではポジティブなことしか書いてはいけない理由」について考えてみた

だいぶ前に読んだ「Facebookではポジティブなことしか書いてはいけない理由(えふしん) - 個人 - Yahoo!ニュース」について今更ながら考えてみた。
元の文と合わせて読んでもらえるとありがたい。


 ここで言われている「sage進行」はTwitterが実現しているのでわざわざFacebookが行う必要はないのかなと思う。もう少し言えば、書きたいことに応じて人々はすでに複数のメディアを使い分けているので「age」たくないことはFacebookに書かないようにすればいいだけだろう。
 で、これらのことをおさらいしたうえで、えふしん氏が言う通りFacebookはいわゆるレッシグの言うような「アーキテクチャ」的に、トピックが感情によってageられている。そのため、一時の感情でぶちまけるような内容を書かないほうが、後々面倒なことにはならない。確かにその通りだ。
ただ、それで本当にいいのだろうか?


 Facebookは投稿内容が連鎖するような構造になっており、ポジティブならポジティブなだけ、ネガティブなら同じくらいネガティブに連鎖していく。Facebookが最近やらかした心理実験でも似たようなデータが出ていたりする(あの分析に関してはツッコミどころがあるみたいですが)。

 ただ、共有したいと思う内容に個人的なことが含まれる場合も多いだろう。Twitterならさらっと流れるかもしれないし、Facebook上で案外と長く居座るかもしれない。自分の発言にある程度責任を持つ必要はあるだろうが、公開範囲をある程度絞ることで制限もできる。このような機能があったとしても人間は何かしら失敗を犯すし、そもそもそのようなことをしなければならないのなら書かないほうがいい、といった旨を書かれているが、果たしてそうだろうか?


 えふしん氏はネガティブ発言をかなり悲観的にみられておられるが、ネットでのコミュニケーションの要素の一つとして、あらかじめ知ってもらうために発言するというものがある。ある種のリスクヘッジとして、あえてネガティブな発言をするという使い方もできるわけだ。そこまで狙ってネガティブ発言ができるのならば誰も問題にはしないのだろうが、ひとつの使い方として提案できる。もちろん、その発言の理解に対する質問には答え続けなければならないのだが。

 さらに、「ある種、沢山の人に共有したい、意見を聞いてもらいたいなどと言ったものについて、少しでも物議を醸し出しそうな話題を自分の名前で書くのは、少しFacebookでは力が強すぎるように思えます。」という旨を書いておられるが、程度の問題はあるにせよ、発言しておいた方がいいのではないかと思う。というのも、自分の主義主張、政治観や倫理観といったものを持ち合わせている以上、そのようなものをある程度オープンにしておいた方が、その人の人となりがわかりやすくなるのではないだろうか。
つまり何が言いたいかというと、age仕様だからこそ発言することによるリスク管理がとても楽にできるのではないかということだ。適当なリスクを管理しながらネガティブな自己開示を行っていけば、ある程度の自分に関する理解のようなものを得られるだろう。これこそ、空気による対人距離の取り方なのだが、この場合はあえて空気を読ませるような発言をすることによるリスク管理とでも言えるだろうか。それくらいのことを考えたうえでSNS上で発言できるようになれば問題ないのではないか。繰り返しになるが「その発言の理解に対する質問には答え続けなければならないのだが。」



ところで、本当の恐怖は行き場の失ったネガティブ発言にあるのではないだろうか?と思うのだが、いかがだろうか。








おまけ
 「20代に彼女ができない草食化も、友達間の過度な情報共有が原因で「チャレンジできない」「失敗できない病」に陥ってるのではないか!?と思ってたりしま す。友達同士の距離が近すぎると、空気を読みすぎて友達コミュニティの中で抜け駆けできない状態になってはいないでしょうか!?根拠があるわけではありま せんが、誰か研究していただけますと幸いです。」なんてことを書いていますが、彼女ができない=草食化なのだろうか?という疑問も湧いてくる。彼女ができなくてもセックスしているやつは案外多いし、その辺のデータもないままにこれを持ち出しちゃうのは痛い。
そもそもチャレンジしなけらばならないことを迫られ続ける社会ってのは息苦しすぎる。ほっといてもチャレンジしていくし失敗を恐れないやつが勝手にやっていく。皆が努力し続けなければならないというのもおかしな話じゃないか?もっと気楽に生きてもいいんじゃないの?その結果として、いわゆるマイルドヤンキーよろしく、友だち同士の近い距離でのんのんと生活していくような生き方があってもいいのではないだろうか?


 ついでに、ここに書いてあるように、「空気の読みすぎ」なんて状態は中学、高校生には案外よくある話で、LINEをやめられないとかいう話は、ケータイメールの時代からざらにある話。むしろ歳を経ることでこの空気の読みすぎだとか、まどろっこしい言葉を使うと役割期待を抱いている状態からは自然と解放されたり、距離を置いたりするので、友達間での過度な情報共有が原因でチャレンジできない、失敗できない病なんてことは戯言に等しい。「空気の読みすぎ問題」と、「チャレンジできない、失敗できない問題」は切り分けて考えるべきじゃないだろうか。質の違う問題を一緒くたになっているので、その辺は別々の考察が必要になってくるだろう。

iPhoneでテザリングしようとしたらWindows8.1のPCでなぜかインターネットに接続できなかった件について

内容はタイトル通りです。
iPhoneとPCをWi-Fiで接続した際のテザリングのみの問題です。解決のためにやったことを記載しておきます。
利用PCは東芝 dynabook KIRA V634/K28

Windows8.1のPCで接続できた環境、できなかった環境

テザリングで接続できた環境

電源に接続していたときには問題なく接続できました。

テザリングで接続できなかった環境

バッテリーで駆動していたとき、なぜか接続できなくなりました。
ただし、この状態でもiPhoneによるテザリングのみ接続不可能で、その他、据え置きの無線LANルーターや公衆無線LANへの接続は問題なくできました。


自分の環境では主に以上の二点で接続の有無が左右されていました。
この環境の違いによる設定の差がどこにあるのか、概ねネットワークまわりになにかあるのではないかと思い、適当なワードで調べた結果、以下の設定で解決しました。

電源の管理に問題?

電源の管理に問題がある、というよりはWindows8.1固有の問題な気もしますが、以下のような設定を試してみました。

コントロールパネル>ハードウェアとサウンド>電源オプション>プラン設定の変更>詳細な電源設定の変更>ワイヤレスアダプターの設定>省電力モード

と、ここをチェックしてみると、バッテリー駆動時と電源駆動時で設定が異なっていました。


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そこで、「バッテリー駆動」時も「最大のパフォーマンス」へと変更しました。すると、iPhoneによるテザリングでの接続が可能となりました。

Windows8.1では無線LANが不安定になる?

調べてみると、iPhoneテザリングという限定的な状況の方は少ないようで、無線LANが接続できない、よく途切れるといったものが多かったです。その上で環境によっては今回の方法で解決しない場合も見受けられました。
そのことを踏まえて、参考程度に以上の方法を試してみてください。


Windows8.1で無線LANが不安定だったのでやったことまとめ - ・・・tohokuaikiのチラシの裏(それ図解できたらいいなぁ)こちらの説明がとても参考になりました。

iCloudと草薙素子、記憶と身体性

 つい最近、iPhoneが不調だったのでアップルストアに向かったところ、新品交換となった。
ここまではよくある話で、そのあとのデータの復旧も今ではiCloudを利用してアップルストアWi-Fiに接続するだけでだいたいのデータをほぼ同じ状態で復旧することができるようになった。昔はiTunesのバックアップから復旧していたなあ…と思いながら小1時間ほどで最低限のアプリは戻ってきた。
その時に、以前のiPhoneに貼っていた保護フィルムもだいぶ痛んでいたしと剥がさずにそのまま引き渡すことにした。うん、ここまでもよくある話。久しぶりの素のiPhone、使っていてとても不安を覚える。


 さて、ここからが本題だ。一連のこの何も考えずに行っていた行為に妙な違和感を覚えた。
自分が今まで使っていたiPhoneと瓜二つの別物に、どこぞからデータを同期することによって一瞬でクローンを作り出すことができる。あ、こいつクローンなんだなと思いながら使うんだけれど、如何せんまったく同じものだから違和感がない。でもスマホなりPCなりのハードウェアの替えがきくものならこれでもいいのかもしれない。ただ、ここに感情と身体性を付け加えるとどうなってしまうのかと思い始めてしまった。


 たとえば、PSO EP3カードレボリューションとかいうゲームがあったのだが、そこに出てくるクランツというキャラは、ストーリーの途中で一度死ぬのだが、彼のクローンに記憶のバックアップを付加することによって、何事もなかったかのように復活する、という話がある。彼個人という存在はオリジナルにしろクローンにしろ、同じ記憶を持っているので、行動も言動もまったく違和感がないのだが、周りからみたときに一度死んだ人間であるという事実が、周囲との歪みを生み出す。というかその違和感をそれぞれがうまいこと乗り越えていく話が盛り込まれている。もう少しコミカルな話だと、シュワルツェネッガー主演のシックスデイなんかでもいいかもしれない。


 攻殻機動隊草薙素子の場合、もう少しシンプルだ。彼女自身の記憶やら感情はネットワーク上を飛び交っているので、彼女自身の身体は必要ないが、しかし、それでもその身体性を求めるような部分はある。攻殻SACではその描写がより濃く描かれている。印象的なものとして素子が女性用の腕時計をしているシーンだ。固有の身体が必要ではない彼女は、バトーにより高出力な義体を勧められるもそれを固辞する。なぜその義体にこだわるのか。記憶の外部化が進んだ時代の身体とはなんなのか。


 2つの例はそれぞれ、周辺の問題と個人の問題をそれぞれの側面から見ることができる。少なくとも、今の自分をオリジナルと考えた場合、クローンの自分に対して、たとえ同じ記憶をもっていたとしてもそれはクローンにすぎない、とオリジナルは考える。オリジナルが亡くなったとしてクローンはその社会的機能を代替はするが、さて、その場合オリジナルの存在意義とは何だったのだろうかということになる。この辺の話はあまり発展性がないので省くが、オリジナル感情として、クローンと別の存在である自分、決して記憶をリアルタイムで共有しているわけでもない存在は脅威であり、畏怖の存在になる。
草薙素子パターンだとやや異なったこと状態になる。身体から外部化された記憶の在りどころと自らの身体性とのアイデンティティに悩むことになる。記憶は身体と紐づけされているのかそうでないのか…。最近では、人工知能に身体を与えると勝手に体の使い方を習得していくというものがあるが、自らの経験が身体性からのフィードバックでしかないとするならば、やはり人は身体を持ち続けるしかないのないのではないか。
身体性にこだわらない人というのもいるらしいが、PCの前に存在する個人もまた、身体というインターフェースからのフィードバックにすぎない。ネット上に身体性を持ち込むことができるようになればまた少し、変化するのかもしれない。少なくとも現状では身体性は持ち込めないが、個人という存在は残すことができる。記憶の外部化なのか、はたまた存在の外部化なのか、身体というインターフェースを通して稼働している間はリアルタイムで機能しているといえるが。


 話が長くなってしまったが、このまま身体と記憶が分離していった場合どうなるのか。現在の自分自身と照らし合わせたうえで考えてみると、思った以上に記憶を外部化していることがわかる。何かを記憶するよりも、あるデータとデータを結びつける処理のほうを優先するほうがインターネットが高度に発達した現代においては都合のいいことが多い。もっと日常的なことを言えば、とりあえず自分が食べたものを写真にでもとっておけば、数日前、何を食べたのかという写真から、何をしていたのかということがだいたい想像がつく。その他SNSのログも同様に機能してくれる。あの時何をしていたのか、たとえログがなかったとしてもなかったことから何をしていたのか想像がついたりもする。身体における経験を効率よくデータ化し、ネットのどこかやローカルのフォルダに放り込んでおく、そんな生活をかれこれ何年か続けている。
人の記憶の曖昧さと、それを補完するための行為として続けているのだけれど、これらは自分の身体とそれを保持する記憶装置(脳)とが連動することによってはじめて機能するとても個人的なものだ。今現在、まだ身体と記憶や感情が完全に分離することはない。そこで小さな安心感を覚える自分がいることもまた事実だ。


 この話にこれといったオチがあるわけでもないのだが、将来的に、草薙素子的な何かになるのかどうかはわからないが、身体と記憶、感情が分離できるようになった場合どうなってしまうのだろうか。そんなことをふと思っただけだったりする。
ただ、このままのスピードで世界が回ったら、いつの間にか完全外部記憶も夢じゃないだろうし、現にウェアラブルコンピューティングはそのような方向に進んでいる。その時の身体性がどのようなものになるのかはわからない。だが、自分の身体情報がデータとして存在し、それをもとに様々なことが行われるとき、一体どのように個人を定義することになるのか。身体に紐づけされない個人が個人として在るために結果として何をよりどころとすればいいのか。


 俗な言葉でいうところの「ささやくのよ、わたしのゴーストが」というところに落ち着くしかないのだろうか。今の自分にはまだわからない、ただ身体からの記憶の疎外感を日々感じていくだけだ…。




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新品交換したiPhone。同じケースをつけたら本当にそのまんまでなんだか妙な違和感を感じたので今では違うケースを着けている。