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ゆるふわ系殺伐ブログ

「Facebookではポジティブなことしか書いてはいけない理由」について考えてみた

だいぶ前に読んだ「Facebookではポジティブなことしか書いてはいけない理由(えふしん) - 個人 - Yahoo!ニュース」について今更ながら考えてみた。
元の文と合わせて読んでもらえるとありがたい。


 ここで言われている「sage進行」はTwitterが実現しているのでわざわざFacebookが行う必要はないのかなと思う。もう少し言えば、書きたいことに応じて人々はすでに複数のメディアを使い分けているので「age」たくないことはFacebookに書かないようにすればいいだけだろう。
 で、これらのことをおさらいしたうえで、えふしん氏が言う通りFacebookはいわゆるレッシグの言うような「アーキテクチャ」的に、トピックが感情によってageられている。そのため、一時の感情でぶちまけるような内容を書かないほうが、後々面倒なことにはならない。確かにその通りだ。
ただ、それで本当にいいのだろうか?


 Facebookは投稿内容が連鎖するような構造になっており、ポジティブならポジティブなだけ、ネガティブなら同じくらいネガティブに連鎖していく。Facebookが最近やらかした心理実験でも似たようなデータが出ていたりする(あの分析に関してはツッコミどころがあるみたいですが)。

 ただ、共有したいと思う内容に個人的なことが含まれる場合も多いだろう。Twitterならさらっと流れるかもしれないし、Facebook上で案外と長く居座るかもしれない。自分の発言にある程度責任を持つ必要はあるだろうが、公開範囲をある程度絞ることで制限もできる。このような機能があったとしても人間は何かしら失敗を犯すし、そもそもそのようなことをしなければならないのなら書かないほうがいい、といった旨を書かれているが、果たしてそうだろうか?


 えふしん氏はネガティブ発言をかなり悲観的にみられておられるが、ネットでのコミュニケーションの要素の一つとして、あらかじめ知ってもらうために発言するというものがある。ある種のリスクヘッジとして、あえてネガティブな発言をするという使い方もできるわけだ。そこまで狙ってネガティブ発言ができるのならば誰も問題にはしないのだろうが、ひとつの使い方として提案できる。もちろん、その発言の理解に対する質問には答え続けなければならないのだが。

 さらに、「ある種、沢山の人に共有したい、意見を聞いてもらいたいなどと言ったものについて、少しでも物議を醸し出しそうな話題を自分の名前で書くのは、少しFacebookでは力が強すぎるように思えます。」という旨を書いておられるが、程度の問題はあるにせよ、発言しておいた方がいいのではないかと思う。というのも、自分の主義主張、政治観や倫理観といったものを持ち合わせている以上、そのようなものをある程度オープンにしておいた方が、その人の人となりがわかりやすくなるのではないだろうか。
つまり何が言いたいかというと、age仕様だからこそ発言することによるリスク管理がとても楽にできるのではないかということだ。適当なリスクを管理しながらネガティブな自己開示を行っていけば、ある程度の自分に関する理解のようなものを得られるだろう。これこそ、空気による対人距離の取り方なのだが、この場合はあえて空気を読ませるような発言をすることによるリスク管理とでも言えるだろうか。それくらいのことを考えたうえでSNS上で発言できるようになれば問題ないのではないか。繰り返しになるが「その発言の理解に対する質問には答え続けなければならないのだが。」



ところで、本当の恐怖は行き場の失ったネガティブ発言にあるのではないだろうか?と思うのだが、いかがだろうか。








おまけ
 「20代に彼女ができない草食化も、友達間の過度な情報共有が原因で「チャレンジできない」「失敗できない病」に陥ってるのではないか!?と思ってたりしま す。友達同士の距離が近すぎると、空気を読みすぎて友達コミュニティの中で抜け駆けできない状態になってはいないでしょうか!?根拠があるわけではありま せんが、誰か研究していただけますと幸いです。」なんてことを書いていますが、彼女ができない=草食化なのだろうか?という疑問も湧いてくる。彼女ができなくてもセックスしているやつは案外多いし、その辺のデータもないままにこれを持ち出しちゃうのは痛い。
そもそもチャレンジしなけらばならないことを迫られ続ける社会ってのは息苦しすぎる。ほっといてもチャレンジしていくし失敗を恐れないやつが勝手にやっていく。皆が努力し続けなければならないというのもおかしな話じゃないか?もっと気楽に生きてもいいんじゃないの?その結果として、いわゆるマイルドヤンキーよろしく、友だち同士の近い距離でのんのんと生活していくような生き方があってもいいのではないだろうか?


 ついでに、ここに書いてあるように、「空気の読みすぎ」なんて状態は中学、高校生には案外よくある話で、LINEをやめられないとかいう話は、ケータイメールの時代からざらにある話。むしろ歳を経ることでこの空気の読みすぎだとか、まどろっこしい言葉を使うと役割期待を抱いている状態からは自然と解放されたり、距離を置いたりするので、友達間での過度な情報共有が原因でチャレンジできない、失敗できない病なんてことは戯言に等しい。「空気の読みすぎ問題」と、「チャレンジできない、失敗できない問題」は切り分けて考えるべきじゃないだろうか。質の違う問題を一緒くたになっているので、その辺は別々の考察が必要になってくるだろう。