よーすとりーむ

ゆるふわ系殺伐ブログ

iCloudと草薙素子、記憶と身体性

 つい最近、iPhoneが不調だったのでアップルストアに向かったところ、新品交換となった。
ここまではよくある話で、そのあとのデータの復旧も今ではiCloudを利用してアップルストアWi-Fiに接続するだけでだいたいのデータをほぼ同じ状態で復旧することができるようになった。昔はiTunesのバックアップから復旧していたなあ…と思いながら小1時間ほどで最低限のアプリは戻ってきた。
その時に、以前のiPhoneに貼っていた保護フィルムもだいぶ痛んでいたしと剥がさずにそのまま引き渡すことにした。うん、ここまでもよくある話。久しぶりの素のiPhone、使っていてとても不安を覚える。


 さて、ここからが本題だ。一連のこの何も考えずに行っていた行為に妙な違和感を覚えた。
自分が今まで使っていたiPhoneと瓜二つの別物に、どこぞからデータを同期することによって一瞬でクローンを作り出すことができる。あ、こいつクローンなんだなと思いながら使うんだけれど、如何せんまったく同じものだから違和感がない。でもスマホなりPCなりのハードウェアの替えがきくものならこれでもいいのかもしれない。ただ、ここに感情と身体性を付け加えるとどうなってしまうのかと思い始めてしまった。


 たとえば、PSO EP3カードレボリューションとかいうゲームがあったのだが、そこに出てくるクランツというキャラは、ストーリーの途中で一度死ぬのだが、彼のクローンに記憶のバックアップを付加することによって、何事もなかったかのように復活する、という話がある。彼個人という存在はオリジナルにしろクローンにしろ、同じ記憶を持っているので、行動も言動もまったく違和感がないのだが、周りからみたときに一度死んだ人間であるという事実が、周囲との歪みを生み出す。というかその違和感をそれぞれがうまいこと乗り越えていく話が盛り込まれている。もう少しコミカルな話だと、シュワルツェネッガー主演のシックスデイなんかでもいいかもしれない。


 攻殻機動隊草薙素子の場合、もう少しシンプルだ。彼女自身の記憶やら感情はネットワーク上を飛び交っているので、彼女自身の身体は必要ないが、しかし、それでもその身体性を求めるような部分はある。攻殻SACではその描写がより濃く描かれている。印象的なものとして素子が女性用の腕時計をしているシーンだ。固有の身体が必要ではない彼女は、バトーにより高出力な義体を勧められるもそれを固辞する。なぜその義体にこだわるのか。記憶の外部化が進んだ時代の身体とはなんなのか。


 2つの例はそれぞれ、周辺の問題と個人の問題をそれぞれの側面から見ることができる。少なくとも、今の自分をオリジナルと考えた場合、クローンの自分に対して、たとえ同じ記憶をもっていたとしてもそれはクローンにすぎない、とオリジナルは考える。オリジナルが亡くなったとしてクローンはその社会的機能を代替はするが、さて、その場合オリジナルの存在意義とは何だったのだろうかということになる。この辺の話はあまり発展性がないので省くが、オリジナル感情として、クローンと別の存在である自分、決して記憶をリアルタイムで共有しているわけでもない存在は脅威であり、畏怖の存在になる。
草薙素子パターンだとやや異なったこと状態になる。身体から外部化された記憶の在りどころと自らの身体性とのアイデンティティに悩むことになる。記憶は身体と紐づけされているのかそうでないのか…。最近では、人工知能に身体を与えると勝手に体の使い方を習得していくというものがあるが、自らの経験が身体性からのフィードバックでしかないとするならば、やはり人は身体を持ち続けるしかないのないのではないか。
身体性にこだわらない人というのもいるらしいが、PCの前に存在する個人もまた、身体というインターフェースからのフィードバックにすぎない。ネット上に身体性を持ち込むことができるようになればまた少し、変化するのかもしれない。少なくとも現状では身体性は持ち込めないが、個人という存在は残すことができる。記憶の外部化なのか、はたまた存在の外部化なのか、身体というインターフェースを通して稼働している間はリアルタイムで機能しているといえるが。


 話が長くなってしまったが、このまま身体と記憶が分離していった場合どうなるのか。現在の自分自身と照らし合わせたうえで考えてみると、思った以上に記憶を外部化していることがわかる。何かを記憶するよりも、あるデータとデータを結びつける処理のほうを優先するほうがインターネットが高度に発達した現代においては都合のいいことが多い。もっと日常的なことを言えば、とりあえず自分が食べたものを写真にでもとっておけば、数日前、何を食べたのかという写真から、何をしていたのかということがだいたい想像がつく。その他SNSのログも同様に機能してくれる。あの時何をしていたのか、たとえログがなかったとしてもなかったことから何をしていたのか想像がついたりもする。身体における経験を効率よくデータ化し、ネットのどこかやローカルのフォルダに放り込んでおく、そんな生活をかれこれ何年か続けている。
人の記憶の曖昧さと、それを補完するための行為として続けているのだけれど、これらは自分の身体とそれを保持する記憶装置(脳)とが連動することによってはじめて機能するとても個人的なものだ。今現在、まだ身体と記憶や感情が完全に分離することはない。そこで小さな安心感を覚える自分がいることもまた事実だ。


 この話にこれといったオチがあるわけでもないのだが、将来的に、草薙素子的な何かになるのかどうかはわからないが、身体と記憶、感情が分離できるようになった場合どうなってしまうのだろうか。そんなことをふと思っただけだったりする。
ただ、このままのスピードで世界が回ったら、いつの間にか完全外部記憶も夢じゃないだろうし、現にウェアラブルコンピューティングはそのような方向に進んでいる。その時の身体性がどのようなものになるのかはわからない。だが、自分の身体情報がデータとして存在し、それをもとに様々なことが行われるとき、一体どのように個人を定義することになるのか。身体に紐づけされない個人が個人として在るために結果として何をよりどころとすればいいのか。


 俗な言葉でいうところの「ささやくのよ、わたしのゴーストが」というところに落ち着くしかないのだろうか。今の自分にはまだわからない、ただ身体からの記憶の疎外感を日々感じていくだけだ…。




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新品交換したiPhone。同じケースをつけたら本当にそのまんまでなんだか妙な違和感を感じたので今では違うケースを着けている。